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更田委員長職員訓示(東京電力・福島第一原子力発電所の事故から10年にあたって)

2021年3月11日
原子力規制委員会委員長 更田豊志

東日本大震災、そして東京電力福島第一原子力発電所事故の発生から10年が経ちました。

10年という節目の日ではありますが、事故の記憶、反省、教訓を風化させてしまわないためにもいま私が抱えている不安や懸念などもご紹介して初心を忘れないように訴えたいと思います。

事故の発生から10年が経って、危険な兆候、劣化の兆候が現れていないか、問い直し、考え続ける必要があります。

まず、いわゆる”規制の虜”についてお話ししたいと思います。Regulatory Captureという言葉が”規制の虜”、日本語では”規制の虜”になってるので少しわかりにくい所はありますが、経済学の分野では、本来は消費者保護のためであったはずの規制が、いつの間にか生産者保護のための規制に変化してしまう現象として1950年代から指摘され、経済学者スティグラーの研究などが有名ですが、2007年には、当時まだ大統領候補であったオバマ米国元大統領が米国原子力規制委員会USNRCのことを規制すべき産業界の虜になってしまったと批判しました。

そして、東京電力福島第一原子力発電所事故が発生し、国会事故調はこの”規制の虜”を事故を防げなかった原因として取り上げて、そして、新しい規制組織に関する様々な議論を経て、規制当局は推進当局から独立しました。

ここで私が強調しておきたいのは、規制当局が規制対象の虜になってしまうという”規制の虜”は、規制当局と規制対象という構図における普遍的な現象として捉え、懸念すべきものなので、規制当局が推進当局から独立したから解消された、その恐れは無くなったと考えてはいけないということです。独立性に優れているとされている規制当局であっても、”規制の虜”への恐れはずっと意識され続けるべきです。

規制当局が事業者の虜になってしまうメカニズムは様々なところに潜んでいると考えるべきです。例えば、事業者がトラブルや不始末を起こしたときに、私たちはしばしば、規制にも足らざるところがあったのではないかと考えます。このこと自身は一般に良いことだと受け止められがちですが、私たちは事業者の保護者ではないし、保護者になるべきではありません。仮に、事業者の不始末について規制当局も常に一定の責任を負うと考えてしまうと、不始末が起きたとき、それをなんとか丸く収めよう、小さく捉えようとするマインドが規制側にも生まれてしまいかねない。それこそ"規制の虜"です。

“規制の虜”に陥らないためには、事業者の不始末は事業者の責任として突き放す姿勢が規制当局には必要です。

次に、いわゆる世界最高水準、世界で最も厳しい水準の基準という表現についてお話します。

いわゆる新規制基準は、様々な自然の脅威に対する備え、多重かつ多様なシビアアクシデント対策、大規模損壊対策など、既設炉に対する規制要求としては確かに世界的に例のないものになっています。しかし、置かれている自然条件の違いがあり、文化の違い、経験の違いなどハード面だけでなくソフト面にも様々な違いがあるなかで、基準や規制の国際比較は非常に難しいことです。

もとより、継続的な改善を怠ることがあってはならず、“世界で最も厳しい水準の基準をクリア”という台詞が、基準をクリアすれば大丈夫なんだという姿勢を生まないように、新たな安全神話とならないように、私たちは十分に注意をする必要があります。

3つ目、セキュリティに関することですが、東京電力柏崎刈羽原子力発電所におけるID不正利用については、当初の評価の甘さのため、情報の共有に著しい遅れを生じてしまいました。当初の評価が甘いものになってしまったことについて、正常性バイアスのようなものは働かなかったか考えてみる必要があります。人は予想外の事態に触れたとき、それを一定の範囲のなかのものと考えたい、つまり、想定内と考えたいという指向性を持っており、こういった認知や思考に働くバイアスが当初の評価を左右しなかったのか、自らに問いかける姿勢が重要だと思います。また、情報の扱いが厳しく制限される核セキュリティ事案については、多くの目による監視が不可能であるからこそ、委員会の関与を強めておくべきでした。委員会はIAEAなどの国際機関において行われる核セキュリティ分野の議論に参加し、核セキュリティのあるべき姿、方法論、安全とセキュリティとの干渉など、言わば大所高所の議論に加わってきましたが、それではなぜ、核セキュリティの現場で起きていることに強く関与しようとしなかったのか。

安全についてもセキュリティについても、規制の内容は現場に反映されなければ意味を為しません。委員会は実働部隊とともに働く組織として、細部に、実態に目が届くように努めるべきであることは、安全でもセキュリティでも同じことですし、むしろ核セキュリティにおいてこそより重要なことであったと思います。

また、原子力規制委員会も昨年、不正アクセスがあったことによりネットシステムを外部から遮断せざるを得なくなり、いまだに不便を余儀なくされています。不正アクセスを許してしまったが、そこに私たちの緩みはなかったのか。深刻な情報漏洩は確認されていないものの、不正アクセスを許してしまったことについて反省が必要です。不正アクセスを許すに至った詳細については脆弱性をさらせないという理由で公開できませんが、このために批判的視点を欠いてしまうというようなことがあってはなりません。

次は、私が原子力規制委員会発足後ずっと心配し続けていることですが、ガイドの整備、マニュアルの整備を進めています、今。これによって規制の内容がどんどん規範化されていくことに強い懸念を持っています。規範化というと堅苦しいですけど、ルール化といいますか、型にはめようとする、型にはまってしまうような形にするというのを規範化といっています。規範化は、規制側、被規制側の負担を小さくする一方で、欠けをみつけること、想定外に備えることにとって害となる側面があることは意識されてしかるべきです。

東京電力福島第一原子力発電所事故はシビアアクシデントでした。シビアアクシデントは常に想定の外で起こるでしょう。想定の範囲を超えるからこそ大きな事故に至ってしまう。安全を求める戦いは想定外を減らす戦いであって、その戦いには、常に新たに考えることが不可欠です。既に他の人が考えたことのなかに答えを見つけようとする姿勢では、シビアアクシデントを防ぐことは出来ません。

審査ガイドといったものは、将来の審査における審査官の負担を軽くする目的で作られてはならないと考えています。ガイドが定型的な審査の手順を与えてしまうと、審査官や申請者が考えなくなってしまう。審査は、予め書かれているものとの照らし合わせでは全くダメで、それは責任の放棄に等しいのです。審査も、そして検査も、ときには白紙に戻って考える姿勢が重要です。対象が一つの機器であれば、その動作原理を理解し、どのような条件下でどういった機能、どれだけの性能が必要なのか、考えることが重要です。審査の予見性は一定程度は必要でしょう。しかし、すべてが予見できるようなものは審査とは呼べません。

既にこれまでも繰り返しお話ししてきたことですが、自分でなくとも誰かがちゃんと考えていると期待するのはやめましょう。寝た子を起こすことを恐れてはなりません。必要ならば前言を翻すことを厭わず、卓袱台返しも恐れずにやりましょう。原子力規制委員会・原子力規制庁の職員にとって、意見を持ったら発信するのは権利では無く義務なのです。

検査についても、マニュアルの整備を求める声が聞かれます。多くの場合、マニュアルの整備は良いことかも知れませんが、たくさんマニュアルが出来てしまって、検査がマニュアル通りに進められたら、検査はどんどんチェックリスト方式に戻って行ってしまいます。新検査制度のポイントは、予め決められたものに囚われることなく、検査官それぞれが自らの知識、経験、理解に従って枠にはまらない検査を行うことです。

審査でも検査でも、私たちの責任の多くは、既に書かれたものに答えを見つけようとすることではなく、自らの知識、経験、理解に基づいて考え、判断することによって果たされると考えるべきなのです。

次に、東京電力福島第一原子力発電所では、現場の努力によって、発電所が発電所の外に危害を及ぼす可能性は極めて小さなものになっています。一方で、作業の困難さは一層高まっています。作業が安全に進められるよう注意を払いつつ、効果的、効率的な廃炉が進むよう、原子力規制委員会・原子力規制庁は十分な監視を続けていく必要があります。処理済水の処分、廃棄物の安定化安定保管など直面している課題の解決に向け、規制委員会・規制庁は一層、気を引き締めていかなければなりません。

また、昨日、中間報告書をとりまとめた東京電力福島第一原子力発電所事故の調査分析は、事故後10年を経て、まだまだ調べることがあることとともに、これまでにでも出来たであろう調査分析が終わっていないことも明らかにしています。電力自主として進められ、当時の規制当局も行政指導というかたちで関与していた、事故以前のシビアアクシデント対策の設計、施工にあたっていかなる議論があり、検討、考慮が為されたのか、また、為されなかったのか、このシビアアクシデント対策の整備にあたって、訓練についてはどのように考えられていたのかなど、問い直していくことが重要だと考えています。

最後に、私はこれまで、初心を忘れてはならないということと、継続的な改善が不可欠だということをしばしば口にしてきました。一方は、決して変えてはならないことについてであり、もう一方は変え続けていかなければならないということです。どちらも安全神話の復活を許さないためには重要なことです。

事故の発生から10年を迎え、改めて原子力規制委員会は安全神話の復活を許さないということを誓って、私の訓示とします。

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